鰹節が現在の形の商品になったのは江戸時代の初期を過ぎた頃からである。
鰹の魚群は黒潮に乗ってやってくる。
黒潮暖流の水温が上昇してくるにつれ台湾、沖縄から北へのぼり、晩春には鹿児島沖に達する。やがて高地沖を通り熊野灘を過ぎ、愛知、伊豆という沖合いを経、夏には仙台沖に現れる。晩秋には三陸沖に至って、そのあたりからぐんゆうを解き、分散して南へ戻ってゆく。
鰹節が発明されたのは、紀州熊野の地であるといわれている。熊野灘が有利なのは、日本列島の太平洋側を流れて北上している黒潮が熊野において最も陸地に近接することである。従って鰹の魚群も陸地に近づく。そこで絶好の漁場が生まれるのだが、熊野を過ぎるとよほど沖へ行ってしまう。
漁船のあまり発達していない時代では、うかつに黒潮に乗ってしまえば時にその急流から逃れられず、船も人も地球のどこかへ行方も知れずになってしまうことが多い。このような条件から古代より熊野の地で鰹漁が発達したのであろう。
鰹の魚肉は干せば硬くなるため、堅魚とよび、やがてカツオという音に変化した。後世、生魚を鰹と言い、干したものを鰹干し(鰹節)と呼んで分けたが、上代では二儀が一語で済まされていて、カツオといっただけですでに干したものをさした。言葉が「鰹干し」から「鰹節」に変化するころには、複雑な名に値する良質の品物ができるようになったのは、
「乾燻法」
という製法が紀州熊野の地で開発されて以来である。江戸初期かと思える。

「日本水産史」に採録されている記録によると、紀州日高郡の鰹船が、元和年間(1615〜23)に土佐の西の幡多郡の沖にあらわれている。
かれらは陸地に基地(鰹節の製造所その他)を設けたかったのであろう。
こんにち、鰹節の大きな生産地の一つである薩摩の枕崎に対しては、寛永年間(1624〜43)に、紀州の森弥兵衛という者がやってきて伝授したといわれている。
土佐に対しては、寛文よりすこしあとの延宝二年(1674)紀州から通漁でやってくる祐太朗という者が、「鰹節の面白い造り方を教えちゃる」
といって乾燻法を伝授したのがはじめであるという。

紀州熊野人は、先進的であった。


彼等は小さな漁船を漕いで西は土佐や薩摩、あるいは五島、東は伊豆に進出し、鰹節の乾燻法を教えた。
その後鰹節は、それらの地で改良を加えられ、現在にいたっている。